●沿線風景(深谷線2・中瀬〜本庄)
 島村の集落近くにある県道中瀬牧西線の本庄・伊勢崎市境。県境といってもただの集落の一角である。

 牧西近辺の風景。この辺りの一帯にも農地が広がる。

 国道17号線を越えた線路はグラウンドを見ながら本庄台地へ上っていく。

 諏訪新田駅周辺は住宅地である。

 県道本庄寄居線の陸橋から東方を望む。本庄鉄道は奥に見えるダイヤパレスの向こうで高崎線を越える。

 「旅いまトレンディ」。やや古風なキャッチフレーズである。

 本庄駅はグランドホテルとJRの間にある。

 中瀬を過ぎた深谷線はそのまま農村地帯を西へと進む。

 かつては深谷駅〜境町駅・中瀬農協間のバス路線があった県道深谷伊勢崎線と交差し、北阿賀野の集落の北方に血洗島がある。

 血洗島は、明治・大正時代に活躍した実業家・渋沢栄一の出身地として知られる。

 駅は、渋沢栄一生家「中の家(なかんち)」がある血洗島の集落からはやや離れているが、深谷線の前身である深谷鉄道設立時の彼の功績を記念して、戦後、近くに作られたこの駅に血洗島の地名をつけたと言われる。


 血洗島を過ぎてもなお西へ進み、深谷市から本庄市へ入る。本庄市に入ってすぐのところに島村がある。

 駅名の由来は、駅のすぐ北に位置する島村の集落であるが、駅の所在地は埼玉県本庄市宮戸である。ちょうど、駅と集落との間に埼玉・群馬県境がある形になる。

 現在の群馬県伊勢崎市境島村地区であるこの島村は、元々は利根川の北側に位置していたのだが、利根川の流域変更によって地域が分断され、そのために利根川南側の集落は飛び地と化して現在に至っている。

 現在の利根川は、河川改修でしっかりした堤防が築かれたために、昔のように水害が起こることはほとんどなくなったが、かつては氾濫によって流れが幾度も変わったために島村では農業が難しく、それが幕末〜明治期に島村で養蚕が発達した要因のひとつだと言われている。

 明治期には遠くヨーロッパにまで輸出し、群馬県下の蚕種製造量の40%を占めるほどに島村の蚕種業は栄えたが、現在では集落の農家と、「島村蚕種業績之地」碑などにその名残を残すのみである。

 なお、利根川の北にある伊勢崎市域との間には橋がなく、島村渡船が今なお運行を続けている。


 島村からは本庄に向かって、なおも農業地帯を南西に進む。再度備前渠を渡り、小和瀬の集落を掠めて走り、牧西の集落の北にある牧西に至る。

 この辺りは現在の本庄市藤田地区で、1954年に合併するまでは児玉郡藤田村であった。藤田村は明治時代に6ヶ村の合併で成立したが、そのうち、小和瀬、滝瀬、宮戸村はそれ以前は榛沢郡(現在で言う深谷市、岡部町、花園町、川本町、寄居町にまたがる地域。大里郡に合併され消滅した)に属していた。

 この旧榛沢郡に属していた3つの村は、児玉郡に属していた本庄町との交流が強く、そのために明治期の自治体合併時に児玉郡に属する事を選んだのだという。

 本庄市は人口約6万人とそれほど人口の大きい市ではないが、その中でも農業を中心とする藤田地区は、約3500人と比較的人口の少ない地域である。


 牧西の先で旧中山道を越え、元小山川を渡る。しばらく進むと、国道17号線と交差した後上り勾配となって、利根川まで広がる低地から本庄台地へと登る。

 台地上には、先ほどまでの農業地帯とはうって変わって住宅が広がっており、諏訪神社の近くに諏訪新田がある。


 諏訪新田を出ると盛土区間となり、上り勾配で進んで高崎線をオーバークロスして、高崎線の南側へ出る。

 今度は右カーブ&下り勾配で地平に降りながら高崎線に近づき、共に県道本庄寄居線の陸橋をくぐると本庄である。

 本庄はかつて中山道最大の宿場町として栄えたが、現在では車社会化の進展と共に中心市街地の空洞化が進み、旧中山道の商店街も人通りは少なく、閉店した店舗や駐車場・空き地も目立つ。

 その一方、最近では利根川の北に位置する伊勢崎市との交流は深く、伊勢崎〜東京方面の交通では本庄経由JR線利用が多いためか、本庄市街では群馬ナンバーの車も多く見かける。

 2004年の新幹線本庄早稲田駅開業、新坂東大橋開通でより両市の往来がより活発になることが期待される。