●本庄鉄道の歴史(本庄電気軌道編)
 児玉線(本庄〜児玉間7.8km)の前身である本庄電気軌道の路線が開業したのは、1915年(大正4年)9月20日のことでした。
 本庄電気軌道は、当時の本庄町長が社長となって設立され、本社は七軒町に置かれていました。

 本庄〜児玉間(児玉はJRと共用している現在の場所ではなく、児玉町八幡山の国道254号線とJR八高線とが立体交差している場所にあった)7.1kmの路線で、途中には七軒町、高関、蛭川などの停留所が設けられていました。

 ほぼ全線が単線の併用軌道ですが、高関で列車の交換ができるようになっていました。
 経営は決して楽ではなかったようですが、1921年(大正10年)には電動客車が1両増備されたりしているので、それなりの輸送実績をあげていたと思われます。

 ところが、その1921年(大正10年)から本庄電気軌道線と同じ本庄〜児玉間に、「児玉自動車」がバスの運転を開始します。
 当然この両社は競合状態に陥ったため、本庄電気軌道は苦境に立たされることになりました。
 本庄電気軌道側も、競合関係になるバス路線開設を認可しないように働きかけるなどしていたものの、それらの工作はうまくいきませんでした。

 こうした状況を乗り切るため、本庄電気軌道は、1922年(大正11年)に諸井恒平らの協力を取り付けて増資を行い、専用軌道化による高速化、さらに対立する児玉自動車の買収などを計画します。

 1923年(大正12年)に四方田〜吉田林間、1924年(大正13年)に吉田林〜児玉間、1925年(大正14年)に本庄〜四方田間が専用軌道化されています。
 全線の専用軌道化に合わせて半鋼製ボギー車3両が導入され、本庄〜児玉間は従来所定25分、実際は30分程度を要していたのが、18〜20分と大幅に所要時間が短縮されました。

 また、児玉自動車を1927年(昭和2年)に系列化して、本庄〜児玉間のバス路線を廃止させています。

 1931年(昭和6年)7月には、当時の鉄道省の八高北線(現在のJR八高線)倉賀野〜児玉間が開通したため、本庄電気軌道の児玉を西児玉に改称しました。
 しかし1934年(昭和9年)には、八高線との連絡の便を図るために、吉田林〜西児玉間で従来の線路から分かれて八高線児玉駅に至る連絡線が建設され、西児玉駅は廃止されます。


児玉駅近辺の線路切り替え図


 本庄電気軌道はその後も電車の運転を続けていましたが、やがて戦時体制に突入していきます。
 深谷・本庄地域の交通統合の流れの中で、1943年(昭和18年)7月、本庄電気軌道は傘下の児玉自動車と共に深谷鉄道に合併されています。